
終戦から78年、戦争を体験した人が減っています。惨禍を二度と繰り返さないために記憶を語り継ぐ、千葉ゆかりの9人に話を聞きました。広島で被爆した女性、空襲で親を失った男性、戦艦の元乗組員…生き延びた人たちの思いは。(全9回)
核戦争の危機「今も」
爆音、燃える街…体験語る 長崎で被爆 小野宏祐さん(82)=柏市
幼少期に長崎市で被爆したが「暗い気持ちになる」と、当時のことを人前で証言することを避けてきた。ただ、年々被爆者が減少し、ロシアによる核兵器使用の脅威が高まる現状に危機感を抱き、県庁で8日に始まった「平和祈念原爆展」で体験を語った─。
学用品にも戦禍の影
強制疎開で自宅取り壊し 伊東夫美さん(89)=千葉市中央区
5年生時の「国史」のノートも保管しており、丁寧な字の下には歴史上の人物の絵が描かれている。ノートの裏表紙には東アジアの地図が印刷され、中国の東北部に日本が建国した傀儡(かいらい)国家「満州国」が記載されている─。
16歳、沈む戦艦から奇跡の生還
「武蔵」元乗組員 早川孝二さん(95)=南房総市
太平洋戦争で米軍に撃沈された旧日本海軍の戦艦「武蔵」。当時、16歳という若さで大型戦艦に乗り込んだ早川孝二さん(95)は、両腕を負傷し、沈みゆく武蔵が生み出す渦にのみ込まれながらも奇跡的に生き延び、故郷の千葉県南房総市に戻った。
母の経験語り継ぐ
3歳、千葉空襲で父失う 森大死さん(81)=千葉市緑区
1945年6月10日の千葉空襲があった時は3歳だった。当時の記憶はないが「二度と戦争をしてはいけない」と力を込めるのは、78年前に起きた戦火の悲惨さを母から繰り返し聞いてきたからだ。当時は現在の千葉市中央区蘇我1丁目に住んでいた─。
終戦の日、故郷で空中戦
「米軍上陸」恐れ避難 松崎貞夫さん(90)=睦沢町
戦闘機が空中戦を展開する音を聞いたのは、1945年8月15日だったと記憶している。「米軍が一宮の海岸から上陸してくる」。既にそんなうわさ話が広がっていた。自宅は土睦村(現睦沢町)の上市場地区にあり、海岸からは5キロほどだった─。
県都の戦災、子どもたちに
事実から考える力を 増田淳さん(55)=千葉市中央区
子どもたちに戦争のことを伝えるのは客観的な事実だけで、教えすぎないように気を付けている。「子どもは好奇心旺盛で自分たちでどんどん調べる。その動機付けができればいい」と指摘。戦争が良いか悪いかの結論は子どもたちに考えてもらっている─。
空襲、被爆…経験後世へ
継承は「使命」、娘と共に 木村美子さん(81)=成田市
幼少時、広島県呉市で大空襲に遭った後、広島市内で被爆した。戦争経験者が減る中、「生き延びた者の使命だ」と約5年前から本格的に語り部活動を始めた。今年7月には母の姿を見てきた娘3人と初めて被爆地を訪れ、平和について考え直したー。
14歳で志願「地獄」目撃
抑留2年、体験冊子に 春日吉五郎さん(94)=香取市
1943年に14歳で海軍に志願。通信兵として東南アジアの戦地に赴き、仲間が乗る多くの船が撃沈される「地獄」を目の当たりにし、手を合わせた。終戦後も2年間現地に抑留され、古里に戻った時に母親が見せた笑顔は今でも覚えている─。
命ある限り語り継ぐ
焼夷弾命中、右脚失う 日佐戸輝さん(100)=野田市
ただ、涙の理由はそれだけではなかった。出征時は大勢の人が万歳をしながら盛大に見送ってくれた。右脚を失い九死に一生を得て、帰還した自分を出迎える人はいない。戦争のむなしさや不条理さを思い知らされた涙でもあった─。
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