

旧日本軍の大艦巨砲主義を象徴する戦艦「武蔵」がレイテ沖海戦で沈没してからまもなく79年を迎える。乗組員だった中島茂さん(102)=柏市=は、武蔵を「不沈艦」と固く信じ、南方に向かったが、無残に撃沈。暗黒の海で遭難する中、生きる気力を取り戻させたのは夢の中で聞いた「母の声」だった。内地に帰還する輸送船も沈没し、九死に一生を得た経験から「戦争は私の世代だけでたくさんだ」と不戦を強く訴える。
(報道部 福田淳太)
◆大きさに衝撃
中島さんは1938年、17歳で志願兵として横須賀海兵団に入隊。卒業後に巡洋艦や潜水母艦に搭乗していた。武蔵との出合いは42年。転勤命令を受け、向かった広島県の呉港で艦影を目にすると、その大きさに圧倒された。
元搭乗員らによる慰霊団体「軍艦武蔵会」のホームページによると、武蔵は全長263メートル。主砲9門などを搭載し、「世界最大、最強」と称された。「『化け物じゃないか』と驚く大きさ。搭乗していた巡洋艦の倍ぐらい。周囲の駆逐艦が子どものように見えた」。日本が世界に誇る巨大戦艦での勤務は、海軍軍人として大きな誇りだった。
連合艦隊司令長官の山本五十六が戦死し、遺骨を乗せて、木更津沖に停泊した際、横須賀海軍砲術学校高等科入学のために下船。卒業後再び、武蔵に搭乗し、主砲や副砲の電気配線の管理を担った。
艦隊勤務には、息抜きもあった。内地の食糧事情が悪い中、ラムネやあんぱんなど甘い物を楽しめたほか、射撃訓練後にはビールまで振る舞われた。映画フィルムも届き、甲板に幕を張って月に一度ほど行われた「 ・・・
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